室内ハードル歩
「ご飯だよ〜!」
キッチンから父の声が聞こえてきた。
「よし!ご飯だって!行こう」
まだ遊んでいたいのにな。。母に促されて渋々手に持っていた玩具を手放し、重い腰を上げて仕切りの外に出る。週に一度しか明るくならない真っ黒な板を横目に父の待つキッチンへ向かおうとすると、大きな窓から降り注ぐ眩い太陽の光が僕を包み込む。最近はなんだかポカポカするなあ。ふと目をやると少し前までは灰色だった窓の外から今まで見たこともないような鮮やかな色が飛び込んでくる。その色に心を奪われた僕は吸い込まれるように窓際までやってきてしまった。
「はにゃ〜!」
鮮やかな色を指差しながら言うと母が応えてくれた。
「そうだね〜花だね〜」
僕の言葉を肯定してくれる母。いくつもの花を指差しながら「はにゃ〜!はにゃ〜!!」と繰り返す僕。満足するまで一頻り付き合ってくれた母が再び僕を優しく促す。
「そろそろキッチン行こう?ご飯だよ」
は、そうだった。僕はご飯を食べようと部屋を出たのだった。奪われた心が戻り、我に返った僕は再び歩き始める。
すると母が普段座っている椅子の足に僕の大好きなものがくっついている。まさかこんなところにもあるなんて…!母は仕事をしながらも僕に黙ってこれを転がしながら楽しんでいたのか!
「たいやいや〜」
そんな羨望の眼差しでそれを見つめていたら無意識のうちに思わず声が出てしまっていた。
「そうだね〜タイヤだね〜。でもそれは触ると危ないからダメだよ。指を引かれて痛い痛いってなっちゃうよ?」
いやいや、そんないつもは自分が遊んでいるくせに僕にはダメだと言うだなんて。これを転がす楽しみを独り占めにしようだなんて。僕はそこを動かないつもりでしゃがみ込み、たいやいやを弄りつづけた。
「危ないからダメだってば。行くよ?」
言い終わるか終わらないかのうちに両脇の下から手を当てられる僕。刹那、視界が突然高い位置へと移動する。少し気持ちが悪い。あまりにも急激に移動したので、慣れていないと目が回る。母に抱えられた僕はキッチンへと強制連行される。なぜだか母は先ほどまでよりも疲れているように見える。
まずテーブルに足をついて、体制を整えてから椅子へと移動する。カチャリとベルトをつけられ部屋を見渡すと、茶色っぽい厚紙でできた箱に描いてあるやや地味な柄の中に、僕の大好きなものが紛れ込んでいた。
「ちょちょ〜!」
あれは紛れもなくちょちょ〜だ!ひらひらと舞って僕の心を掴んで離さないちょちょ〜だ!
「蝶々ね〜。」
とりあえず共感しておこうとばかりに生返事を返す父。違う!わかってない!あれだよあれ!僕は椅子から全身を乗り出してそれを指差しながらもう一度大声で訴える。
「ちょちょちょ〜!」
繰り返し僕が言うものだから父も少しその気になったようで僕が指差す方に目をやる。
「あ、本当だ。蝶だね〜。こんなところに蝶の絵が描いてあるんだね〜」
やっと気づいてもらえた。僕は嬉しさのあまり椅子から飛び出るんじゃないかという勢いで座面から繰り返し跳ねた。
「はい、ご飯ご飯。」
目の前に置かれた僕の海苔巻。美味そうだ。早速手でむんずと掴んで口に運ぶ。しかし、口に入る直前に手を掴まれ、海苔巻きが口から遠のいていく。なんで!?僕は悲しくなって泣き叫んだ。
「その前に手を拭かなきゃだめだよ」
母は泣きじゃくりながら抵抗する僕の手を無理やり掴み、ガーゼで拭き上げる。
「どうぞ。いただきます。」
ようやくありついた昼食。自分の事ながら、我を忘れて目的を見失い、別の何かに没頭してしまうほど好奇心が旺盛であることに驚く。僕の部屋から食卓まで僅か5,6m。また室内ハードル歩が始まる。