駐車場の猫は

猫を轢いた。轢いてしまった。

 

夏の合間の涼しい日。雨が降る午後。僕は息子を連れて車で出かけた。

 

用を済ませて夕方に帰ってくると、家の外に新聞に包まれた何か。いつもお世話になっているご近所の方がふたり、その近くで立ち話をしていた。

 

駐車場に車を入れて挨拶すると、曇った表情のお隣さんが状況を説明してくれた。

 

どうやら今僕が車を停めたこの駐車場に猫が横たわっていたらしい。見てみると全く動く様子がなかったようで、役場に連絡をして回収を待っているところだった。

 

全くそんな感触や鳴き声のようなものはなかったけれど、出発前に車の下を確認することもしていなかった。近所の人は(おそらく僕を気遣って)車の中心の部分に横たわっていたから、車で轢いたのとは違うだろう、きっとどこかで弱ってここに来たんだと思う、とフォローしてくれた。

 

でもやはり…僕が殺してしまったと考える方が自然だし、おそらくそうなのだろう。

 

昔、外を歩いている時に、偶然車が猫を轢いてしまう現場を目の当たりにしてしまったことがある。知らない猫だったけれどとても心が痛んだ。いや、むしろその現場を目にしてしまったことで気分が悪くなっただけかもしれない。少し暴れたあと、その猫は息絶えてしまった。瞼の裏に焼きついたその時の光景がフラッシュバックした。

 

程なく役場の方が来た。簡単に挨拶すると、まるで道端に落ちているただのゴミを拾うかのように慣れた手つきで動かなくなった猫を掴み、ゴミ袋に入れて帰っていった。僕は近所の方々にお礼を言って家に入った。

 

僕の実家では長い間猫を飼っている。今でも三匹の猫がいる。多い頃は十匹近くの猫が暮らしていた。僕が子供の頃もずっといた。猫が亡くなる瞬間に立ち会った事もあるし、庭に埋めた事もある。飼い猫が亡くなる時はとても悲しい。家族が亡くなる時に匹敵するくらいの悲しみがある。

 

今回、見も知らぬとはいえ一匹の猫を自分が殺してしまった。もちろんショックだったが、悲しさは少なかった。自分が殺してしまったにも拘わらず。正直言って自分でも驚くほどだった。飼い猫ではないとはいえ、僕は基本的に猫のことがとても好きだし、散歩中に野良猫を見つけては足を止めて撫でてやったり写真を撮ったりもする。だから驚いた。

 

同じ日、とある有名人がネット上の発言で炎上していた。オリジナルのソースを直接見たわけではないので詳しくはわからないが、ニュースサイトによると

 

“「自分にとって必要のない命は僕にとって軽い」「ホームレスの命はどうでもいい。いない方が良くない? 人間は自分たちの群れにそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きていける」「生活保護の人たちに食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい」「(批判している人より)はるかに税金を払っているので僕の方が助けている。個人の感想としては猫の(命の)方が重い」”

 

というような発言をしたらしい。

 

このニュースを見て、今日自分が感じた事を重ねて考えてしまった。自分にとって遠い者の命よりも近しい者の命(それが人間であるかないかに関わらず)が失われてしまうと、より心が動かされる。という感覚を持っている人は割と多いのではないかと感じるし、自然な事だと思った。

 

少なくとも赤の他人がどこかで亡くなるよりも、家族や友人、飼い猫が亡くなってしまう方が自分は悲しいだろう。とはいえ命の重さは?と問われれば猫よりも人間の命の方が重いように思う。単に心が動かされる度合い=命の重さではないだろう。

 

アフガンでは離陸直前の米軍機にしがみついた人達が振り落とされて命を落としたらしい。

 

駐車場の猫がのんびりあくびをしていられるように、出発前には必ず車の下を確認しようと思った。